たとえば、よく出来た映画というものは、独自の《世界》を見事に形造っている。そして観るものを強引に引きずり込んで、夢中にさせてしまう。たとえ小さなテレビでレンタルビデオを見たとしても、いつのまにか小さな画面はその枠を超えて、我々をすっぽり包み込んでしまうのだ。これは言い換えれば、我々の心の中にその《世界》がしっかりと結像する、といことに他ならない。
何も映画に限った話ではない。音楽でも絵画でも文学でも、おおよそ人を感動させうるものは、すべて独自の《世界》を鑑賞者の心の中に周到に組み立てる。鑑賞者はその世界の中にどっぷり浸かって、ひととき世俗の憂さを忘れ、作者のメッセージを味わう。今実際に居る部屋は見えなくなってしまい、いつの間にか、自分が仮想の世界の中で活躍し愛し苦悩する主人公になってしまう。
逆に言えば、こうした作品を味わうときには、鑑賞者は作品の発するひとつひとつのディテールを自らの内で組み立て直し、作者の刺激に基づきながら、無意識のうちにも《自分で》その世界を構築しているのである。だからそれは決して受け身ではなく、自らの内での【再創造】とでも呼びうる行為なのだ。芸術は、芸術家が作品を造っただけでは完成しない。鑑賞者がそれを一度ばらばらに分解し、作品に欠けている部分を自ら補って再創造することで完成する。鑑賞者は、実は自分で造った世界に酔いしれているのである。すなわち鑑賞とは、実は非常にクリエイティブな行為なのだ。
このためには《理解の基盤》が作者と共有されていなくてはならない。たった31文字の和歌の中に「秋の夕暮れ」とあるだけで、美しい紅葉と澄んだ空気、そしてもの悲しい静けさをしみじみと感じることが出来るのは、作者にも鑑賞者にもこの日本の素晴らしい秋の体験が、深く刻み込まれているからである。砂漠の民にはどうやっても想像できない事だろう。逆に我々が宗教絵画を見ても、信者が感じるほどの感銘は得られない。宗教絵画のディテールに対する知識もなければ、それらの関係性も背景も分からない下では、
再創造どころか、説明されて「へぇー」と思うのが精一杯だ。こうしてみると、この《理解の基盤》の体系こそが、《文化》そのものだということがわかる。
建築もまた、人の想像力に働きかけるために、緻密に構成された部品の集成ということができる。機能や構造・コスト等々という制約は大きいにせよ、建築は人を実際に包み込む空間を造るから、より強く人をそのミクロコスモスの中に置くことができるだろう。アプローチから始まる空間構成のストーリー、個々のスペースにおける光や材料の扱い・拡がりやディテールの演出、隣接する空間相互の関係性----それらは時間軸に沿って、少しずつ訪れる者を刺激する。人は身体を建築の空間に包み込まれるだけでなく、心の中にも建築の世界を再創造し、そこにすっぽり包み込まれる。通り過ぎた空間と、今居る空間と、これから行く向こうの空間の関係性の中から、全体の構成が無意識のうちに心の中に組み立てられ、光や材料やディテールの扱いがそれをより明瞭にして、この《世界》が心の中にしっかり結像するのである。
ただ、ここで建築が絵画や文学と決定的に異なるのは、建築が再現芸術ではないという点である。絵画は絵の具の配列にすぎず、文学も文字の羅列にすぎないが、それを通して愛とか人生とか自然とか《何か他のもの》を表徴する。絵の具や文字は《何か他のもの》を再現するための媒体に過ぎない。ところが建築は、床壁天井は基本的には、そのもの自身とそれが包む空間の特性しか意味しない。
それらを通して 心地よさとか伸びやかさ・高揚感・やすらぎ・理知性・新しさ等々の感覚を得るのは、本来は絵画や文学より高度に抽象的な再創造によるものである。芸術評論家ハーバード・リードは、最も高度な芸術は
陶芸であると言っているが、これもまた、明確な意味を持たない部分の集積から再創造することの難しさを述べているのである。しかし逆に言えば、理解の基盤が特定の文化に依存していない分、どんな時代・地域の作品も等しく再創造可能である点は、建築の大きな強みといえよう。
先程 鑑賞とは、実は非常にクリエイティブな行為だと書いた。そう、だからこそ優れた建築を見ることが、最高の訓練になるのである。なぜなら設計とは、自ら引いた一本一本の線が、人間にどう働きかけるかを想像し批評し修正しながら進める行為だからであり、実現させようとする床や壁や天井が、どのような《世界》を構成するかを、頭の中で組み立てることだからである。これは鑑賞するときの再創造と全く同じ事だ。違いは部品が目から見た実物か、自分の図面から想像したものかだけである。こうして建築家は、現象学的に新しい《世界》を目指してゆくのである。(榎本弘之 建築専門誌『KJ』2011年12月号所収)
背景写真:ロンシャンの教会
写真で建築を味わうというのは、実際に訪れて見るより遙かに難しい。空間の三次元的拡がりからスケール感・テクスチュアから吹いている風の感じまで、すべてを二次元の中から想像し、頭の中で再構成しなければならないからだ。この再創造は、設計するときの頭の動きときわめて近いといえよう。
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