建築の評価基準
女子の世界で支配的な評価基準となっているのは、ご存知「カワイイ」である。コスチュームから髪型・化粧・小物はもとより、生き方から人間の存在自体にまで、良いと女子の感じるものは全て「カワイイ」と評される。それは今や世界語となりつつあり、「二十一世紀に入って世界にもっとも広まった日本語」とさえ言われる程である。これは本来の「可愛い」がもつ”cute”の意が、「カワイイ」では遙かに拡大・変質し、そのニュアンスにふさわしい形容詞が外国語には見当たらない、ということにもよるのだろう。
それでは、男子における最強の評価基準は何か?それは「かっこいい」以外ない。かっこいいバイク・かっこいいクルマ・腕時計・ファッション・生き方、そしてかっこいい建築----なんだかんだとゴタクを並べ立てたところで、実のところ男子の本心は「かっこいい」ものを求めているのである。ところが「カワイイ」と比べて「かっこいい」には、なんとも捉えがたいところがある。
まずは話し言葉では違和感がないのに、文字にするとどうにもしっくり来ない。「格好良い・カッコイイ・カッコ好い」と書いても、如何にも「かっこわるい」。俗っぽくて安っぽい。これは何故か。こんなにも男子のなかで強烈なクライテリアなのに、なんとも不思議だ。一言で言えば、文章のなかで全く使われないため見慣れていない ということになろうが、口語と文語の溝がここまで埋まってきている現代において、こんなにも頑なに文語化を拒否されている言葉も珍しい。デザイナーでこの言葉を表立って使っているのも、川崎和男くらいしか私は知らない。
それはこの言葉の指示する内容の曖昧さによるところも大きいだろう。それが第二の捉え難さだ。まだ「カワイイ」が”cute”という訳語にさほど違和感がないのに対し、「かっこいい」はせいぜい”cool”とか”groovy”等々で、どれもまたぴったり来ない。「主に子供や若者が、人や物の外見・行動が現代風で自分の好みにぴったりする、という気持ちで使う語。(goo辞書)」とまで大きく括ってしまえばまあそんなものかとも思えるが、それではあまりに大雑把だ。
実は我々のなかでは「かっこいい」というのは、かなり明確なイメージを伴っている。建築でいえばダイナミックで繊細で鋭角的・シャープ・メタリック・すかっとした・先端的----日本の男子なら誰でも分かる。しかしながら、どうにも論理的な言葉で明快に説明できない。その曖昧さが知性に欠けると感じられてしまうのだろうか。
話は変わるが、また建築で気をつけなければならないのが「新しい」という形容詞だ。「新しい」という響きは、有無を言わさずとても魅力的である。だが、新しければ何でも良いのか?それは基本的には「これまでなかった」というだけであって、決して良いと保障されるわけではない。意義があるのは、建築のあり方や作り方や人間・社会への対応を突き詰めて考えた末に、これまでを超える解決策が生まれた場合のみである。目新しいことだけを追ってキテレツなものを作ってはいけない。
とは言っても新奇な作品が注目を浴び易いのは確かだし、慣れた古いことばかりやっていてはこちらが飽きる。新しい材料や新しい発想への挑戦は刺激的だ。とてもワクワクする。その刺激のなかから素晴らしいアイデアが湧いてくるかもしれないと思うと、リスクを承知でつい「新しい」事に手を出してしまうというのは、建築家なら誰でも心当たりのあることだろう。
「かっこいい」も「新しい」も、ともに一見シンプルな評価基準に見えながら、実は微妙で一筋縄ではいかないところも多い。ここで明快な結論が出せないのは口惜しいが、その「一筋縄ではいかない」という点を自覚することが、実は重要なのではないだろうか。
コストと法規と要望さえ満たせば良しとする設計士とは違い、建築家は更により深い価値を盛込もうとする。自分は一体どんな評価基準で何を盛り込もうとしているのか----それは、実は曖昧なままにされてしまうことも多い。分析しても、一筋縄ではいかないためだ。しかし、時には意識して自らの「評価基準」というデザインの根幹を客観視した方がいい。それまでは漫然とデザインしていたものが、より明確でより深い表現に達することができるはずだと思うからである。(榎本弘之建築専門誌『KJ』2011年8月号所収)
背景写真:ルノーアルピーヌV6ターボ(『紅葉の森のヴィラ(2007年)』正面ロータリーにて)
そのかっこよさは未だに色褪せず、20年経っても手放せない。しかしその「かっこよさ」とは何かと考え始めると、「美しい」だけではない微妙なニュアンスが複雑に絡んできて、気持ちのなかでは明快なのに、論理的にはどうにもぴたっとくる説明ができなくてもどかしい。
|