KJコラム3「建築の愉楽」
修行というのは、つらくて苦しいものと相場が決まっている。眉間に皺を寄せて小難しい本を一頁ずつ読み進み、先輩は難なくやってしまうのに、なんで俺には出来ないのかと自分を責めつつ実技を繰り返す。以前このコラムに書いた趣旨からすれば、いつしか一人前になることを夢見て必死になる中には幸福な充実感がある ということになろうが、それにしても決して楽しいものではない。 だが、こうした「修行」のためには、少しばかりコツが要る。それは「感受性」のスイッチの入れ方である。漫然と見ているだけでは、どんな素晴らしい作品も何も語りかけてはくれない。学生を連れてラトゥーレットの中を歩いても、スイッチの入っていない学生は、友達とだべりながら「へえ、、」と通り過ぎてしまうだけだ。美しい並木道を歩いていても、ぼーっとしていては何も感じない。しかしひとたび感受性のスイッチをオンにすると、突然、世界は輝いて見えてくる。欅並木も、葉は光を受けてキラキラ輝いているし、葉擦れの音は爽やかさですっぽりと身を包んでしまう。空間は意外なほどに奥行きを見せ、道玄坂って実はこんな綺麗なところだったのかと、心底驚かされる。 そんなことをしようと想うのは、ひとえに好奇心のなせる技である。「かつて感動した記憶」が多いほど、それをまた味わいたくなってしまうのが好奇心の源泉ではないかと思う。ちょうど万馬券のあの嬉しさが忘れられないギャンブラーのように。思い起こせば、旅行関係だった父のお陰で小さい頃から絶景とリゾートの極楽を味わい、新幹線のかっこよさに痺れ、万博で世界への憧れを駆り立てられた身としては、世界は感動の種に溢れているはずだと思ってしまっているのかもしれない。逆に、真面目に受験戦争を勝ち抜き、一流企業で経理畑一筋に来た同級生と旅行をしたことがあるが、彼は何にも喜ばず、淡々と行程を消化するのみだった。感じる心を退化させることこそが、退屈な作業に適応するための生活の知恵だったのかもしれないと思うと、妙な気分にさせられる。 やはり意識して感受性のスイッチを入れることが、建築家として重要なことなのである。というのも設計とは、自らの図面で出来るはずの空間を頭の中に想い描き、そこで人がどう感じるかを様々に想像する作業だからであり、かつてなかった空間の中でのことを想像するという難しい作業のためには、瑞々しい感受性を保ち続ける鍛錬が必要なのだ。そしてそれは、じつに楽しい修行なのである。(榎本弘之 建築専門誌『KJ』2011年8月号所収)
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■西表島ニライナリゾート(沖縄県2002年) |
スキューバダイビングをしに世界中のリゾートを廻り、その素晴らしさに酔いしれる中で、「でも俺ならもっとこうするな」と浮かんだアイデアがいろいろ溜まっているところに、プチリゾートの設計依頼が来た。ここぞとばかりに遊び心を詰め込んだ空間には、むしろ外人客の方が多いくらいになっている。 |