設計の醍醐味の一つに、依頼主と深い人間関係を築ける点がある。建築は一大事業である。出会ってから竣工まで、すんなりと進むことは余りない。最初は敷地や予算に余裕がありそうに思える場合でさえ、すぐに欲は膨らんで、きつい交渉が必要になることも多い。いつしか依頼主とは、多くの山を二人三脚で乗り越える、いわば戦友同士となる。厳しい局面で始めて見せる真摯な眼差に強い魅力を感じることもあれば、一緒に視察旅行をしてその人柄に惚れ込んでしまうこともある。
依頼主には社会的な成功者が多い。彼らと一緒に山を乗り越える中で、我々は否が応でも非常に多くを学ぶことになる。ある広告代理店社長からは「私は建築の素人です。でも人間関係はプロだ。あなたがどのくらい心血を注いで設計に取り組んでいるかは、あなたの眼を見れば分かります」と言われ、簡素なプレゼンテーションだったにもかかわらず、態度で仕事を依頼してくれた。
ある勤務医の先生からは、私は最高のものを学んだ。それは、幸せの極意とも呼びうるものだった。
その住宅設計は、非常にスムーズに進んだ。 アイデアはすんなりと出て依頼主にも大好評、多少の変更はあったものの実施設計も順調に完成した。しかし見積が合わず申請も通らない。工務店や役所との交渉にも随分時間がかかって、ようやく竣工したその姿は、断熱材も仕上材もない内外打放シ--------いくら暖房を炊いても壁は冷たく、夏は夜中でも体温近い。しかしその先生は、打放壁は凛々しくていい、私はこの空間が欲しかったのだと、お会いするたびに満面の笑みなのである。折にふれては、庭にこんな花が咲きましたとかトップライトから差し込む月の光が綺麗ですと写真を送ってくださる。「私はこの家に住まわせて頂いているのを本当にありがたいと思っています」と何度も言われると、初めはかえってとまどってしまっていた。
しかしある時、ハタと気が付いた。そうかこれが幸せの極意なのかと。不満を言えばきりがない。しかし現状の良いところを見てそこに心から感謝し、意識的に楽しむこと--------感謝の気持ちこそが幸せをつかむ源なのだと気づいた時に、私は大きな宝物を得た気がしたのである。
想えば、それは子供の頃から聞かされていたことだった。母は学問はないが旧家の出で、愛情に溢れた楽天家だったが、ことあるごとに『上見りゃきりない、下見りゃきりない』と言っていた。確かにどんな優秀な球児でも甲子園に出ればもっと上がいて落ち込むし、よしや最後まで負けずに優勝したとしても、なかなか次の季節までは連覇できないものである。逆に大震災で仕事が上手くいかなくなった人は、俺はまだましだ家も家族も無事だからと言うし、ひとり生き残った人は、私はまだましだ五体満足だからと思い、大怪我をした人は生きているだけましだと自らを慰める。
ものは考え様である。ずっと上手くいっているとそれが当たり前になってしまい、もっと上を見て不満が募る。ニーチェもこのマイナスの感情をルサンチマンと呼んで、如何にそれを乗り越えるべきかと悩んだのだった。だが全てには両面がある。優柔不断は良く言えば思慮深いとなるし、仕事が少ないのは良い仕事がじっくり出来る好機である。スキャンダルでさえF.L.ライトは次なる飛躍への転機とした。現状の良い面を見て感謝の念で歓びとなせば、自己免疫力が増大して病もふっとびこの世は極楽と、まるで安っぽい新興宗教のようだが、あなたも騙されたと思って無理矢理笑顔を作り、身近な何かに「有難う」と心深くつぶやいてみて欲しい。意外なほどに暖かい気分が湧いてくるはずだ。生理学では、悲しいから泣くだけでなく、涙が出るから悲しくなると言うし、口角を上げて笑顔を作れば、それだけで気が柔らぐ。感謝の気持ちは、心の笑顔なのである。
だが欲望と不満とコンプレックスをバネに、人は文化と文明を推し進めてきたという一面もある。感謝の気持ちだけとなり、『高瀬舟』のように現状に満足しきってしまっては、今度は進歩がなくなってしまう。
感謝の気持ちが静的な幸福だとすれば、前回書いたように《より良きものを求めてワクワクする》のは、動的な幸せと言えるだろう。進歩のために不満点を残してくれて有難うとまではとても思えないが、両者のバランスを上手く保って、現状に感謝しつつも更なる向上を目指したい--------それが幸せの極意であろう。
(榎本弘之 建築専門誌『KJ』2011年6月号所収)
青空を見上げて笑顔を作り、有難うと心深くつぶやいてみて欲しい。自分でもびっくりするほど、心が和むはずだ。
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