--  建築と私  --

 

建築との出会い・建築家としてのスタート

 「どうだ弘之、これは俺が10年前に塗った壁だ。」−−しかし祖父が指さす先にはただ平らな土壁が広がっているだけで、小学生にもならない私には何が良いのかまるで分かるべくもなかった。ただ、祖父の誇らしげな顔だけが くっきりと脳裏に焼き付いた。
 昭和30年代の世田谷は、まだ小さな森もここそこに残る静かな郊外住宅地だった。父は入り婿で、私はよく母方の祖父の自転車に乗せてもらって、色々なところへ連れて行かれたものだった。とはいえ連れて行かれるのは、決まって左官の頭領だった自分の作品がある家ばかり、遠くに行けるのは嬉しかったけれど、土壁を見させられても面白いはずはない。しかし子供心ながらに、自分の分身のような作品があちこちにいつまでも残っているのは凄いなあと祖父を眩しく見上げたのは、今でも良く覚えている。


 父方の祖父は大工の棟梁だった。中学2年の時に実家を建て替えることになり、私は大衆向けの住宅雑誌をしこたま買い込んでは、設計のまねごとをするようになった。といっても方眼紙に6畳や10畳の四角を描いては上手い纏まりを探すという全くのパズル遊びにすぎなかったが、展開図のようなものまで描いた記憶はある。工事が始まると、上棟ではあっという間に大きな建物の形が出来てゆく様に度肝を抜かれたし、祖父がいともたやすく太い材木を切り、信じられない精度でぴったりと組みあげてゆくのを見るのが面白くて、学校が終わると現場に通うのが日課となった。完成した実家に引越した日などは、もう夢でも見ているかと思えるほどに嬉しかったのが、昨日のことのように想い出される。
 こうした体験からか、大学では何のためらいもなく建築学科に進んだし、悩み多くはあっても設計製図は楽しくて仕方なかった。いつの日か自分の設計した建築が立上がったらどんなに素晴らしいだろう、そして日本中に分身がたくさん出来たら親や子供に見せてやるんだと、祖父の顔を思い浮かべながら製図板に向かっていた。


 大学院に進むと、オイルショックの影響をもろに被って凄まじい就職難となったし、当時友人と始めた学習塾が大当たりしたのもあって、何処かに勤めることなど考える気もしなくなっていた。そんな中で、同級生とは「みんなで設計事務所を始めよう」と、まるで当てもなく何度も夢を話していたものである。しかしある時、当時助手をしていた富永譲氏にこの話を聞かれてしまう。「もしそうなら、事務所の名前を決めて名刺くらい作っておかないと仕事が来ても取れないぞ」という言葉にそそのかされるようにして出来たのが《設計組織アモルフ》を言う名前である。実際の仕事がそう簡単に来るはずはないとは思いつつも、名前が決まると不思議に気持ちに張りがでて、必死に仕事を探し回った。このとき未来に不安はなかった。


 こうして数ヶ月後、いくつか話が流れたあとで、仲間が現実の話を持ってきたのである。「将来大先生になってしまう人達が一丸となって設計してくれるなら、こんな名誉なことはない」との言葉に有頂天になって、基本設計はなんとか完成した。ところがどこにも勤めたことのない若者には、実施設計や申請の世界は全く分からないことだらけの真暗闇である。恥も遠慮もなく指導教官やツテを辿って何人もの建築家に教えを請うた。特に安藤忠雄氏には大変にお世話になった。そうして図面や申請書の書き方を教わる中から、建築に対するもっと重要なことを様々に学んでいったのである。建築とは小さなミスも大きなトラブルになりうる非常に厳しい世界であること、デザインも施主の意向もコストもディテールも構造も設備も法規も近隣の迷惑をも考え合わせ、全てを完璧なバランスで組上げていく必要があること、、、しかしこうした難しさと同時に、実現したときには世界中にインパクトを与えうる信じられないくらい素晴らしい世界でもあることもまた、体で感じさせてくれたのだった。
 建築学科を卒業してから30年近くたった今も、毎日が建築との格闘である。人間を取り巻くありとあらゆるものを調停し展開し発展させてゆく作業は、驚くべき程面倒な事の連続だが、しかし、不思議に面倒くさいと感じたことはない。きっと竣工した時の喜びが常に頭にあって、それを実現するために夢中になっているからだろう。こうした《夢中になれる》ことが、私にとっては一番の幸せである。《夢中に》なっているときが、もっともいきいき出来るからだ。最高の人生とは、いきいきした瞬間の連続だ、と信じているのである。



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